おもしろきなき世をおもしろく

年末年始で読んだ、のん×スチャダラパー対談で、昔のヒトは戦争のことを自然災害のような感じで捉えていたのではと書かれてあったのが、とても印象に残っている。現代でも自然災害だけは、よほどのことがあるヒトでない限り、突然舞い襲ってくる。たら・ればで語られがちな評価の中で、事前の状況を少しだけ人災とくっつけたりしている時もある。戦下の自然災害と人材のポジショニングの逆だが。その点、戦下ではインターネットもTVなどのスピーディな情報網も全くない中、一方的な教育や情報投下で、善悪が異常に設定されていることも知らず、爆弾が落ちてきて、火事になったり、建物が倒壊してきたり・・の連続で分別のつくオトナたちは、意味のわからない子どもたちはどう思っていたんだろうか、自然災害のような感じ、、が合点がいく感じがした。

自分が置かれている状況を常にどう考えるかは、生きることと死ぬことをちゃんと向かい合っていくことに近くにいるような気がしている。不安や心配、あきらめなどの類いの発生元は、だいたいくだらないことだ。そのくだらないことは自分の生活の中で否定出来ない「部分」を閉めているが、そのことが中心であってはならない。中心は、『いつか死ぬこと、それまで生きること』だ。仕事や人間関係、お金、地位や名誉なども生きる一部だが、それが中心ではない。そのことを、我が家の赤ちゃんの笑い顔が教えてくれる。徨い見失うときもあるかもしれないが、今年も頑張ろう。大切に生きようと思っています。