生活していれば

生活していれば、色々なことが起きる。娘ひかりは元気に転んで、縫った。元気だと思っていた同僚が心に風邪をひき始め、長期休みに入った。ずっとガリガリだった私は、いつの間にか肥えてきた。あんなに仲良かった友だちの幾人かとはもう会える関係性はない。家人のお母さんとは、出会いから受け入れてもらえず、長らく疎遠だったが、急遽我が家に先日、訪問がされた。スチャダラパーライブに我が家を出発する10分前に登場された。髪をセットしているとインターフォンがなり、家人が「お母さんがきた」と言って家の外にでた。家人もいつもトリッキーなことを言ってくるので、「えっ?」と言い、どうせ変なこと言っているんだろうと油断していたら、またインターフォンがなり、オートロックをあけてくれとなり、家の扉が開き、お母さん登場。ピンクのお洒落なハットを被っていた。

その後の展開はさておき、俺はスチャダラパーのライブに間に合うために、駅に向かって全力で走った。

電車の中ではいつもの風景。冬の昼間の電車はとても空いていた。さっきあったことを反芻したり、電車の長旅の時間を埋めるべく携帯電話をいじくったり、リキッドルームに一人で行くこと自体にやや緊張したり、過去と未来を当分に想いに耽った。お母さんは仕事が変わっていないことと部屋の雰囲気がいいと言葉にして安堵していた。「生活」の様子でその人の暮らしや関係性が計り知れるのも頷きつつ、安定より自分らしさが心地よい自分の心持ちが強くあるが、周りのヒトたちの思いに触れて、少しだけ違った考えが入ってきた気がした。電車に乗っているヒトの数だけドラマがある。それぞれにとっては大事なドラマ。他人のドラマを見たくて月9のドラマもあるんだなと思ったりもした。