鍛錬性

いつもここでは、タイトルを定めてから書き出している。何かを思わないとタイトルは出てこないから、その瞬間書きたいことがあるんだろう。今回は自分の『鍛錬性』について考えてみたい。そのコトバの意味も読めば分かるだろうけれど、あまり使われていない『鍛錬性』。『鍛錬性』のある話が好きだ。そのひとつはスポーツだ。とりわけ好きな選手でなくても、おごることなく、酔うことなく、鍛錬している時の話を知るとグッとくる。野球選手の引退話がオフシーズンに近づくこの頃になると、ニュースになる。好きな野球を自分より年下の選手が終えなきゃいけない。野球は大好きだが、楽しかったことはほとんどプロに入ってからほとんどない。ずっと苦しかったと言う。それを支えてくれた恩師や家族や仲間やファンに感謝のコトバを述べる。近くでその『鍛錬性』を見ていた仲間や家族が泣いている。スポーツマンの彼も一目を憚らず泣いている。巨人を引退した相川選手は、一番思ってくれた天国の母に「やりきったよ」と伝えたいと言い、母はどんなコトバをかけてくれると思うかとの記者の問いに、「本当によくやったね」って。オヤジに「やめるわ」って言ったら「よく頑張ったな」って間髪入れずに言ってくれたので踏ん切りがついた。と答えていた。間髪入れずに言ったオヤジさんの気持ちもグッとくる。鍛錬をしているとき、少し自分が強くなった気がする。前進しているような気がする。だらけているとき、自信はなくなるし、元気もなくなる。がんばり屋さんには中々なれないが、「鍛錬性」を有した年寄りになりたい。天国(地獄かも)の扉をたたく時まで、焦燥感を片手には握っていたい。鍛錬していない所に、光はささない。そんなヒトたちが集まった、弱火の焚き火にはあたらないぜ。一人で過ごす時間も大事にして、特急列車でも鈍行列車でもいいから、寝台列車「タンレン星」のっていこう。