富士屋ホテルをごっくん

旅の最中、長女ひかりは、「待つ」というのをはっきりとできるようになった。「待つ」に限らず、沢山の出来るを発見するのが家族であり、親子であるから物珍しいことではないのだが、家人と一緒にその成長を感じられたので記しておこう。旅も同じく、ささやかなことの繰り返しで、当人達の気持ちがどう揺さぶられたかで、記憶や記録の残り方が違う。富士屋ホテルに到着した時は小雨が降り終わった後の、深い曇り空だった。晴天であったらもっと、テンションがMAXまであがっていたと思う。建物が美しすぎるのだ。晴天だともっと映えたのではと思う。次にドア、入り口が重厚でエレガントだった。別の世界の入り口だった。エントランスが二階にあり、そこは薄暗く、家具はまたもや重厚で可愛らしく、どれもかっこ良かった。右左上下を何周も見回した。目に見える物が、全部自分の好みのテイストだ。自分の好みとは、はっきりと個性があり、でも開けたもの。開けたものとはものによってはPOPともいうし、視界や感覚が閉ざされることなく、大きくと誰かと繋がろうとしている。排他的ではないということ。それが色濃いものにだいたい惚れる。富士屋ホテル内のデザインされたものは、その状態でありつつ、来るモノを別の次元へ誘う。それがタイムスリップした歴史であったり、これまで培われ来た伝統であったり、守られるべき格式であったり。その門を潜ったのであれば、そこから目を背けて適当なことは出来ない。というか選択したくない。そういうパワーを持っているのだ。文字帯からデザインされ、窓から見える景観、プライベートな空間(部屋)、照明、ひと時、サービスをしてくれるヒトの佇まい、、どれも忘れたくない目とココロの財産となった。お子と二人だけで泳いだ室内プールは。さながら自分たちが何者であるかを忘れさせてくれた。