生活と暮らし

 

美味しいというコトバは、よい意味、響きだなとつくづく思う。口に運ばれる幸福はたまらない。それを分かち合うのはさらに格別だと長らく捉えてきた。また、家で過ごすというコト自体が、置かれている状況によりけりだけれど、幸福な時間でありたい。最後は病室ではなく、自宅でと言いたくなる気持ちはよくよくわかる。『家』という文字や響きに詰まったエトセトラには、その人の時間が物語られる。孤独や愛情、試練、暇、夢、、安住の地に家がなることは1つ目標だ。「生活」と「暮らし」というコトバがある。辞典で調べると、違いが殆どない。でも違いを感じて自分はコトバを使っている。音としての響き、経験からくる区別がそうさせている。暮らしというコトバは、生々しさが少し足りない気がしている。生々しさが重要なのだ。生活は生だから。上辺じゃ、語れない。門構えでは知り得ない状態、綺麗なカーテンの中にある攻防、Instagramにあがる家庭料理の光と闇、家路を歩くそれぞれ視界の先、、

 

暮らしの手帳に始まり、暮らしはイコールLIFEに変換され、簡単な使われ方をしていて、次第にダサくなっていると思う。主婦の暮らしだと明るい感じがするが、主婦の生活というとネギをスーパーの袋にいれているようなイメージがある。今、生活というコトバを気に入っていて、「生活」がぴったりだと思って生活しているし、暮らしではなく生活になっていきたい願望が強くある。そこまでなぜ拘っているのか分からないけれど、大柴陽介のことを文章にするときに、そのことを向き合ってみれた。生々しい凸凹さに愛おしさがあり、そこを追求していくことが、自然に培われていくことが、自分が今後していきたい全てなような大袈裟な気持ちをもっている。彼の創った曲をもっと聞いてほしい。分かるに人にはきっと分かるから。