草木花とわたし

草木花とわたしは、そんなに仲良しではなかった。ある時期、紅葉のことを嫌っていた、退屈だと。花見はしていたが、桜は飾りであった。建物の隙間に咲く草花をたまに見つけることは出来たが、ココロは動かなかった。盆栽は出来すぎていたし、雑草はなんだか怖かった。静岡県で800年杉を見たとき、ドキドキしたこともあった。最近もまだ仲良しではない。良さに気付きだしているところで、そのきっかけは八丈島や種子島へ行ったからかもしれないし、家人からの影響かもしれない。大きなきっかけはなくても、自分の真ん中に近づいてくるものがある。それこそは必要としている本物の関係性のような気がしている。没頭という名の集中ではなく、緩やかに近づき、気付いたら大事に思うようなもの。そういうことが今までも確かにあったと思う。その距離感だからこそ消えていったものもあっただろうし、ほとんどがそういう関係性で作られた「好き」だったように思える。稲妻を直撃したサンダーロード的な出会いもとても魅力的だが、そのようにいつの間にか大事にしていたものに気付くと、なんだかホッとする。日々、何かを吸収しながら変化している自分がいることに気付くからだ。「花鳥風月」というタイトルのスピッツのアルバムが好きだ。草木花は主張が激しくなくそこにいて、微妙な変化を共に過ごす。まだまだミーハーな自分は、少し変わった草木を好む。花を家人が好む。その草木花が我が家を彩る。暮らしと生活というコトバの違い(フィーリングですが)も最近気になっている。生々しい生活の中に、草木花や芸術が、仰々しくなく闊歩している。そんな暮らしを俺は好んでいる。こんなことをコトバにするのは初めてだ!