大柴陽介と父、子、しょっぺ

大柴陽介のお父さんが火曜日にこの世を旅立ったと、しょっぺ(大柴陽介の妻)から報が届いた。大柴は36歳のときに旅立ち、2年半ぐらい経つ。人の死は、普段の行いの善し悪しで来るものではない(死刑だけだ)。不幸ということもない。ただただ寂しく、悲しいだけだ。もう実体的には会えない。触れることは出来ないし、話すことも難しい。そのことを身近な家族、子ども、母親、妻はどう思うのだろうか。大柴の母、弟、3人の子どもたち、しょっぺ。俺にも、母、妹、2人の子どもたち、妻がいる。短い期間の中で、身近でかげがないのないものと、現世でお別れするのは、信じられない現実だろう。過去もみるだろう。今をどう捉えていいか難しいだろう。未来はみないといけないだろう、未来が不安や寂しさで苦しめるだろう。みんなに、みーんなにその時はやってくる。時は来たとやってくる。いつでも突然だ。いつ死ぬかなんて知りたくもない。知ってどうする。知ったからどうなる。知らないからやってられる。身近な人の死は、身近な人自身を頼もしく、強くさせるのか?そうも言い切れないと思う。そうであってほしいがそうでない状態がうかぶ。愛しあって生きてきた夫婦は、後を追うように旅立つことは良くある話のひとつだ。鬱になったり、元気やる気を取り戻すのに苦労している人は沢山いる。むしろ多いだろう。親友が自殺した時、俺はそうさせた社会に怒り、疑念を強くもった。信じられなくって、もうちゃんと笑えないかもと、長き闇があった。その時に作れた曲もあった。『闇の谷のナウシカ』という曲で、闇からリターンしてくる時に生まれた曲だ。

しょっぺとは、今、大柴陽介のソロ作制作でやりとりをしている。彼女は、変化を感じさせていない。メールの文章も頻度も内容も、普通だ。

街には何も変わらない風景がある。その中には、色んな日々が隠されている。他人事だとしても自分たちも当事者だ。未来にはやってくる順番待ちなのだから。そのことを無視することは出来ない。痛みの量は違えど、無関心だったとしたら、それは表現者として致命的だし、人間として一番大事な、優しさや愛が少ない人間という、通信簿を持ちながら生きていることになる。俺は今、とても悲しい。頂いた役割を果したいと思う。