ミッシェルゴンドリー

家で子どもとミッチェルゴンドリーのミュージックPVをみる。メリーに首ったけならぬ、口をあんぐり開けて、ストレンジでPOPな作品たちを眺める。ダフトパンクやケミカルブラザーズが流れた時は、2歳8ヶ月の子どもは、かなり集中して見ていて、その背中越しにオトナになった俺も、どのようなイメージを持ったらこんな表現がカタチになるんだろうと感心と関心でココロは胸いっぱいに。ダンサーになりたいと、なぜ10代の頃に思わなかったんだろうと真剣な後悔を今年に入ってから、合計5分くらいは思った。なぜダンサーがいいのかというと、まずは音楽や音を身体を使って表現すること自体、めちゃくちゃカッコイイことと思うからだ。音楽も思想とフィジカルがどちらも使って瞬間的に表現されるから、面白いし気持ちいいと思っている。ツラさ、緊張などはあってしかるべきだろうが、ライヴでみせる表情は皆々楽しそうだ。作る以外にそういう場面があること自体、音楽のいいところ。アタマとココロとともに、身体をハードにでダンスがうまれる。また、現代でもダンスは、原始的な活動でありながらストリート的で、今も昔も最先端な男女が選ぶものだと思う。大衆、部族、盆踊り、コンテンポラリー的なものなどいろんなジャンルでみなイカす。そもそも暗いキモチじゃダンスは出来ないだろう。いわゆるスポーツ的なフィジカルを使うものは、孤独や苦しさを内包し、パワーに変えることはあるが、元気がないとやりづらい。やろうとも思わないだろう。その点も、逆説的にダンスしているということは快活な心持ちであると勝手に思っていて、快活な心持ちは人生に役立つと考える、私、マサヒロでった。

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コメント: 2
  • #1

    kXvrbKwH (金曜日, 08 10月 2021 12:15)

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  • #2

    kXvrbKwH (金曜日, 08 10月 2021 12:17)

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