大柴陽介

完成された「Return of サイケデリック武勇伝 大柴陽介物語」をじっくり、ゆっくりと読んでいる。1つ目の寄稿が大柴の伴侶の、しょっぺからスタートしており、その内容が重厚で、でも柔らかく、面白く、素直で、美しかったので、この先を読む気に中々なれていない。次の木村さん、穂高さんはミッシング箱庭というバンドのメンバーであるから、やはり重たく、深く、苦しく感じ、近いしい人たちから語られる、大柴のひととなりが鮮明に映し出されるので、新発見もありながら、胸が苦しい。自分の寄稿は、全員の中で一番早かったと聞いた。内容も薄い。校正もしなかったし、読み直したいとも当時思わなかった。俺と大柴の関係であるからして、それがひとつの真実だから、思い起こすことも少なく、直感で書いただけだ。みんなの書き出しに、書くまでに時間がかかったとの記述が多かった。それはそうだろう。とても近くの、大事な、偉大な、すげえ奴がなくなったんだから。

一方の俺は大柴との思い出は少ない。長きにわたり、側に居たけれど、2ショットになるのを避けていたし、いい思い出がなく、あいつも俺を苦手にしていたか、そんなに興味がないだろうと思っていた。大柴のすごくそばにいる一部分の人たち、木村さんや田崎君、関根さん、よっちゃん、狩生などとはフィーリングはあったが、当の大柴とは噛み合なかった。でも時折、そばにいるヒトづてに、ほめていたよなどと聞かされたりもしていた。俺は、大柴の作品や才能やセンスや雰囲気をカッコいいと思っていて、出会ってからずっと今も思っていて、ギターなんてとくに、初めの頃はうるさいだけでクレイジーギターって思っていたけれど、徐々に頭角を現し、表現のバリエーションも豊かで、優しい音やストレンジな展開や、奇妙なソロや、美しい音色を出すようになり、なんだか、差がつく一方だなと感心と焦燥を交互にステージ下から見上げていた。同い年の大柴という存在は、いつしか才能溢れる、今は無名だが、いつか(死んだ後?)評価されるに決まっているロックスターということになった。だから、亡くなった時は、有名人が亡くなったというような遠くさと、大事な何かを失ったという感覚だけが手元にあった。近しい人たちの記事を読むと、自分の知っていることの脇や横や上や下を穴埋めしてくれることばかりで、自分が見ていたものや知っていたことを裏付けるエピソードの連続だった。大柴は、シャイで、面倒く、ヘンで、面白く、努力家で、迷惑かけ屋で、優しいやつだったことが、よくわかった。よく捉えれば、俺とも話したいと思ってくれていたのかなと思い、俺が距離置いていたのかもしれないなんて思ったりもした、長い付き合いのヒトがなくなると、事実というか記憶が曖昧になる。それは嫌だな。

実家に帰って、写真を整理していたら、井の頭公園で毎年恒例で行っていた、たくや追悼花見で、穏やかに談笑している写真がでてきた。だいたい、会うと「ひろは、最近なにきいていんの?」って言われ、なんかこたえると、毎回「へー」って言っていた。俺たち、音楽大好きだったよな!って写真見て、会話したぜ、大柴。俺は大柴の残した作品も世の中に広げたいって思っているよ。続きをお楽しみに。大好きな家族や仲間を見守ってあげておくれ!